<2007年5月28日>

笹川―天保水滸伝の里              

 笹川は、千葉県北総にある町です。JR成田駅から銚子に行く成田線に乗って50分のところにあります。ここは天保水滸伝で有名な笹川の繁蔵や平手造酒(みき)の活躍したところです。笹川駅から北へ7分歩いたところに、諏訪神社があり、境内に天保水滸伝の遺品館、また近くに延命寺があり、そこに笹川繁蔵、平手造酒、勢門富五郎の墓碑があります。そこを北に行くと利根川の河原があり、ここは飯岡、笹川の決闘の跡です。さらに進むと、利根川岸の遊歩道に出ます。このあたりは、利根川河口に開けた水郷地帯で、5月下旬に訪ねたときは、田植えが終わり、米の青田が一面に広がっていました。

 天保水滸伝のもととなった史実は、次のようなものです。
笹川町は、江戸時代に銚子から利根川を通り関東各地にいたる利根水運の船着場として栄えた。岩瀬繁蔵は、醤油醸造を業とする素封家の息子(第三子)として笹川に生まれ、相撲が得意だった。江戸に出て相撲部屋に弟子入りし、相撲取りを志した。天保の飢饉で地元の農民が困っているのを聞いて故郷に帰った。地元の親分株を譲られ笹川の博徒の親分となった。持ち前の侠客気質と体力から、勢力を伸ばした。天保13年(1842年)7月27日、諏訪神社の例大祭のとき、農民救済と野見宿禰の碑を建てるという名目で、全国の有名な親分に呼びかけ、賭博の大会を開き、盛名をはせた。この時集まったのは、国定忠治、大前田英五郎、清水次郎長、鈴木忠吉(仙台)など天下に知られた親分衆であり、この会は「十一屋の花会」といわれる。また宿禰の碑は、諏訪神社に今も残る。

 一方、飯岡(銚子の西にある町)には、昔から下総一帯に勢力を張る助五郎という親分がいた。助五郎は、「関東取締出役」という公職にもついていた。俗にいう二足のわらじである。飯岡の助五郎は、新興勢力の繁蔵が勢力を伸ばすのが面白くない。笹川と飯岡は場所が近いうえに、子分同士のいざこざも絶えない。ついに天保15年(1844年)8月3日早朝、助五郎の一味70人が飯岡から利根川をさかのぼり笹川に上陸し、陸路からも侵入して繁蔵宅を包囲した。繁蔵方は十数人ながら健闘し、そのうち応援も駆けつけて戦況は有利になり、飯岡側は多数の死傷者を出して退却した。
笹川の繁蔵の用心棒だったのが平手造酒(本名平田深喜)である。彼は紀州の浪人で、神田お玉ヶ池の千葉周作のもとで修行した剣の達人だった。ところが生来の酒好きで身を持ち崩し破門となり、流れて繁蔵の客人(用心棒)となった。平手造酒はアル中のうえ結核を病んでいて、利根河原の飯岡勢との決闘に奮戦したが、命を落とした。繁蔵への義理に殉じたのである。享年37歳。

 繁蔵は、飯岡勢は公の権威があるから、騒乱罪は免れないと覚悟し、子分を集めて解散を宣言し、自分は放浪の旅に出た。助五郎は、笹川繁蔵と第一の子分勢門富五郎の指名手配の高札を各地に建てた。2年余りして、繁蔵は笹川に戻り、悠々自適の生活を送っていたが、弘化4年(1847年)7月、助五郎一味の刺客により夜道で暗殺された。享年38歳。勢門富五郎は繁蔵暗殺の知らせを聞いて、報復のため飯岡に乱入するも不成功に終わり、自刃した。享年28歳。

天保水滸伝は、天保末に起こったこの事件を題材にして、嘉永版の水滸伝が作られ、歌舞伎などで取り上げられました。大正時代、作家の正岡容(いるる)氏が史実に創作も加え、「天保水滸伝」という浪曲台本を作りました。これを故二代目玉川勝太郎師が取り上げ、その名調子によって全国に天保水滸伝を広めました。浪曲名人選という復刻CDで聴くことができます。十一屋の花会、鹿島の棒祭、平手造酒の最後などが入っています。冒頭の「利根の川風たもとに入れて、月に棹さす高瀬舟」の出が特に有名です。田中角栄元首相がこれを愛唱し、遺品館には彼の揮毫したこの書が展示されています。

 笹川は、佐原、潮来に比べ知名度は低いのですが、天保水滸伝の里として、また大利根の風景を味わえる地としておすすめします。諏訪神社の神楽や相撲大会は江戸時代からの伝統を伝えています。東庄(とうのしょう)町に属し、町は「水と風の里」のキャッチフレーズで観光に力を入れています。
天保水滸伝は、やくざの抗争の物語ですが、義理と人情に生き、権力の横暴に怒る主人公の生き方が庶民のヒーローとして、人気を集めました。千葉の義民伝では、代官の横暴を怒り農民の窮乏を救うため江戸に直訴した佐倉宗吾の物語(佐倉義民伝)は有名ですが、天保水滸伝はこれと並ぶものといえるでしょう。



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